芳野金陵(1803~1878、名世育、字叔果、金陵は号)は、文久三博士の一人で、昌平坂学問所付の幕府御儒者、また昌平学校二等教授をつとめた。その芳野家の旧蔵資料約1,000点(書籍類約700点文書類約300点)には父南山(1766~1831、名を彛倫〈つねとも〉、字叙卿、南山は号)、金陵の長子復堂(1830~1845、名長毅、字伯任、復堂は号)、三男桜陰(1844~1872、名世秀また世行、字実甫、桜陰は号)、四男世経(1849~1927、名世福、のちに世経、薖亭と号す)などの旧蔵が含まれ、漢籍、漢学関係資料のほか、昌平坂学問所関係の記録、また青山延寿、川田甕江、塩谷時敏ら学問所関係者と黄遵憲ら清国公使館員との筆談録も伝わる。
加藤復斎(名信太郎、復斎は号、また室号為春堂)は陸前遠田郡涌谷(宮城県北部)の出身で、明治24年(1891)頃に二松学舎に入塾し、同28年(1895)に二松学舎房長兼助教として作文課を担任、同35年(1902)には塾頭となり、また各種役員を務めるなど二松学舎に深く関わった。のち備前の閑谷中学校、徳島の富岡中学校で教鞭を執った。旧蔵資料約360点には三島中洲の講義の筆記録や自身の講義録、また斯文黌での受講録が残る。
幕末の漢学者、教育者、また明治維新期の官吏として知られる阪谷朗廬(素、1822~1881)の稿本など旧蔵の写本類24点。朗廬は備中川上郡九名村(現・岡山県小田郡美星町)に生まれ、はじめ大塩平八郎(1793~1837)の漢学塾「洗心洞」に入り、ついで江戸で昌谷碩(精溪、1792~1858)、古賀侗庵(1788~1847)に師事し、のち広島藩藩儒となる。また岡山にて漢学塾「興譲館」を創設した。文久元年(1862)には長崎に赴き、そこで中国の知識人林雲逵(1828~1911)と筆談を行い、その際の『林阪筆語』が残るが、旧蔵資料には林雲逵と三島中洲との筆談『林島筆話』が伝わる。
二松学舎の創立者三島中洲(1831~1919、名毅、字遠叔、通称貞一郎)は備中に生まれ、山田方谷に師事し、昌平黌に学んだのち、備中松山藩校有終館の学頭となる。維新後は新治裁判所長、大審院判事を経て、明治10年(1877)、二松学舎を創立、また東京高等師範学校教授、東京帝国大学教授、東宮御用掛、宮中顧問官を歴任した。漢学関係資料は漢籍の抄本や、林雲逵ら来日した中国、朝鮮の知識人らとの筆談録などがあり、法制関係資料は『仏蘭西法律書』などフランス関係法制書や訴訟、裁判に関する記録などがある。
※なお、*を付した資料名は福島正夫氏作成の目録による。
レオン・ド・ロニー(Leon de Rosny, 1837~1914)は北フランスのロースに生まれ、フランス・東洋言語特別学校(東洋語学校、École spéciale des langues orientales)で1863年(1868年から日本語講座開設初代教授)から1907年まで日本語を教えるなど日本語・日本学の研究、また中国語・中国学の研究などで知られる19世紀後半の東洋学者。スタニスラス・ジュリアン(Stanislas Julien, 1797~1873)に師事し、その師ジャン=ピエール・アベル=レミュザ(Jean-Pierre Abel-Rémusat, 1788~1832)の学に連なる。多数の著述があり、本コレクションには絵入の和歌の翻訳、解説書『詩歌撰葉』などがある。
明治期から大正期にかかる漢詩漢文関係雑誌類。二松学舎関係者による『東海北斗』『二松学友会誌』とその継続誌『二松学報』、大連で発刊された『遼東詩壇』。『東海北斗』は明治22年(1889)、山田準(済斎)、本城佐吉(問亭)・池田四郎次郎(蘆洲)らが二松学舎構内に開設した北斗文社から発刊された。明治29年(1896)には二松学舎進展のため二松学友会が発会し、二松学舎在学者、出身者の漢詩文、また消息などを収載した『二松学友会誌』が発刊され、のち『二松学報』と改称された。『遼東詩壇』は大正13年(1924)、漢詩による日中の交流を目的とし、濱田正稲(鈴木商店満洲総支配人)、田岡正樹(淮海)らにより、同人社から発刊された。
『孝経』には古文二十二章と今文十八章の二種があり、注釈書には古文に孔安国伝、今文に鄭玄注、玄宗御注、またその他折衷系などがある。それらは日本に伝来し、江戸期以降は各種多様に出版された。本コレクションにも江戸期から明治初期頃の版本を中心として、古文系本(単経、孔伝、その他中国人注釈、日本人注釈)、今文系本(単経、鄭注、御注、邢昺疏、日本人注釈)、折衷系本などがあり、その種類は多岐にわたる。